「くじ取らず」の鉾として、常に山鉾巡行の先頭を進みます。長刀は疫病邪悪をはらうものとして、鉾先に大長刀をつけているのでこの名で呼ばれます。山鉾の中で唯一生稚児が乗ります。

長刀鉾の由来
初めて神泉苑で勅命により御霊会が行われたのは、貞観5年(863)。貞観11年(869)、都に疫病が流行した際、勅命を受けて神泉苑に66本の矛を立て、牛頭天王を祀って諸国の悪霊を祓いました。これが祇園祭の起源とされています。
長刀鉾の誕生には、宝刀「小狐丸」を鍛えたことで知られ、のちに「天下五剣」の一つに数えられる、徳川将軍家伝来の国宝「三日月宗近」の作者として有名になった三条小鍛冶宗近(さんじょうこかじむねちか)に由縁があります。貞観年間、疫病流行の折、宗近が娘の病気平癒祈願のために長刀を鍛え上げ、祇園社(現在の八坂神社)に奉納しました。
嘉禄元年(1225)、祇園社に寄進された長刀を鉾頭に掲げて、長刀鉾が誕生したといわれています。
正治年間(1199-1201)、怪力無双と伝えられる源氏の武将、和泉小次郎親衡(いずみこじろうちかひら)は長大の剣を好み、祇園社に懇望して宗近の長刀を譲り受けますが、その後不吉なことが起こったため、神刀を私有する非を悟り返納しました。長刀鉾の真木に飾られた「天王座」は、この親衡の姿を写しています。小舟を肩に担ぎ、大長刀を持った天王座は小舟を操り長刀を振るって、山河を駆け巡った勇猛果敢な姿を彷彿させます。
返納された長刀は疫病流行のときに町内に貸し出して拝戴(はいたい)の儀を行うと病気が治るとされ、その評判を聞きつけた人々であふれるほどの人気でした。
応仁の乱(1467-1477)の前後祇園祭は休止とされました。
明応9年(1500)、祇園祭が33年ぶりに復興し、山鉾36基が出ました。この時順番を決めるために鬮(くじ)をとることを始めますが、長刀鉾は「鬮とらず」で先頭を行きます。